内閣の各省庁の幹部人事権は、問題があるか?

今日の午後にあったTBSのある番組で、コメンテーターとして出演していた官僚OBの大学教授が、加計学園の今回の問題について、内閣に審議官以上の人事権を掌握させているのは、問題だとの発言がありました。

筆者としては、この内閣人事権を推奨してきただけに、この発言について、反論したいと思います。

このコメンテーターの意見及び思いとしては、邪推する言い方をすると、ちょっと、次元を落とし、人間臭く言うと次のようになるかもしれません。

城山三郎官僚たちの夏に代表されるように、戦後の日本の発展をささえてきたのは、自分たちであり、中央省庁の官僚こそが、政治的に中立的であり、公平に行政を行える。政治家のような専門性のない、素人に行政のことなどわかってたまるか。一流大学の出で、難しい国家試験を通った自分たちこそ、国政をリードする立場にあると。だから自分たちのこれまで自立した省庁の人事権を握られてたまるか?

このように思ったかどうかは、わかりませんが、人事権を握られる以前の各中央省庁の幹部は、このような思い悪い面ばかりとはかぎりませんがを多かれ少なかれ持っていたのではないかと推測します。

そして、数年前、自民党に代わり政治主導で改革をやろうとした民主党政権の鳩山、管内閣の時に官僚たちは、民主党政権に非協力の態度を示し、それが一因となり、民主党政権運営は、失敗しました。民主党政権運営の失敗は、他にも党内の異なる意見をまとめきれず、内輪もめという醜態を国民の前にさらしたこと、また参議院でねじれが生じ、行政の政策がスムーズにできす、国民に何も実行できない内閣と映ったこと等があげられます。

いずれにしろ、民主党の崩壊の一因となったのが、行政各部の政治主導に対する内閣に対しての非協力でした。当時、民主党政権は、うまく官僚を使えていない。という批判があちこちに聞かれました。

マスコミも、これまで、省庁間の縦割り行政の弊害を指摘し、その内閣の指導力の弱さ及び問題点を指摘してきました。

なぜ、内閣に人事権が必要かというと、次のようになると思います。

まず、憲法65条の行政権は内閣に属する。内閣は、行政権の行使について、国会に対して、責任を負うと定めています。本人でなく他人が不祥事をした場合に責任を負う根拠は、民法の規定を見れば明らかなように、その選任と監督に問題があったからです。その選任を行政のレベルでいえば、人事権ということになるでしょう。

もし、内閣が人事権を持っていなかったとすれば、最終的に、ある官僚が内閣の指示に従わなかった場合は、内閣はその官僚を罷免することはできず、責任の根拠が失われることになります。

また、内閣と各省庁との間で、意見が対立し、二重行政が出現し、その責任の所在がはっきりしなくなります。

こうなると、行政の一元化は図れません。内閣の人事権は、この一元化を図るための担保であり、また責任の根拠でもあると思います。

このようなことを理解せずに、ただ、今回の加計学園のねじまげられた行政が行われた背景や理由を、内閣がこの人事権を持っていることを問題点として指摘するのは、テレビのコメンテーターとして、また大学教授として、いかがなものかと思います。

今回の加計学園の問題は、総理が加計学園の理事の友人でなければ、えこひいきの問題も何の問題も生じないものです。総理官邸や内閣の行政各部への指導があっただけのはなしです。

なお予断ですが、政党政治を出現させ、その政策を行政各部まで浸透させようとした場合は、自民党であれ、共産党であれ、どの政党であれ、人事権を掌握しないと、公務員をスムースに手足のように使えません。もちろん、その政策がよかったかどうかは、国会なり国民の批判の目にさらされますが。これは当然のことです。問題は、各党の政策をスムーズにゆくためのこの人事権が妥当なのか必要ものなのかということでしょう。

もっとも、コメンテータがいうように、その運用次第では、不当な人事が行われたりする可能性もあることは確かです。この点は、筆者も誠実な正しい意見を言った公務員に対しては、不当な人事はしないでいただきたいと前のブログでも書いたと思います。

しかし、不当な人事が行われる可能性がある実際おこなわれたかもしれませんが、それは役人の宿命として受け入れざるをえないのではないかと思います。どうしても不当な人事があったというので、我慢できないなら、やめてからその人事の不当性を世間に訴えるべきです。というだけで、その物事の一面だけをとらえて、発言するのは、大学教授の名がすたれます。